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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【女工哀史の真相①】vol.43

日本中に「女工哀史」の名が知られるようになったのは、昭和54年に封切られ、全国で反響を呼んだ山本薩夫監督の映画「あゝ野麦峠」(主演・大竹しのぶ、新日本映画・東宝配給)からです。
今から35 年も前の映画ですから、今の若い人たちには何の話かと思われるかもしれません。そもそも「女工哀史」という言葉すら聞いたことがない世代のほうが多くなってしまいました。

この映画は、昭和43年に朝日新聞社から発表された山本茂実のルポルタージュ風の小説『あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史』を原案として製作されました。原作は映画よりも10年前ですから、本当に昔の話です。

戦後の日本人が日本の明治以降の近代化の時代をどのように考えていたか、その典型的な誤謬の例を、何回かに分けてお話しておきたいと思います。

本書の改訂版は、角川文庫におさめられています。「《ああ、飛騨が見える…。》故郷を前に野麦峠で死んだ若き製糸工女みね。富国強兵政策に押しつぶされていった無数の娘たちの哀しい青春を描く、戦後ノンフィクションの名作!」と文庫本の謳い文句にあります。
この小説と映画により、明治以降わが国の経済を支え、生糸で一世を風靡した岡谷という私の郷土の名声は地に落ちてしまいました。

ところで、「女工哀史」の名が最初に世に知られるようになったのはもっと古く、大正14年に改造社から発表された細井和喜蔵の同名の作品からです。
実は、細井和喜蔵が著した『女工哀史』は、岡谷の製糸業とは実は何の関係もない話なのですが、岡谷といえば女工哀史の舞台として定着してしまったのは、山本茂実の「あゝ野麦峠」とその映画化以降です。

その『女工哀史』を最初に書いた細井和喜蔵とはどのような人物だったのでしょうか。女工哀史の名前だけが一人歩きし、その原作者については一般にほとんど知られていません。

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