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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【日本人の死生観④】vol.68

万物に宿るたましい

実際に「霊」と「魂」は、日本語としても使い分けられています。

漢語本来の「魂」は、ほぼ人間に限定されるのに対して、日本語の「たましひ」という言葉に当たる「魂」は、人間に限りません。私たちは例えば、すぐれた芸術作品に対して「この作品には魂がこもっている」というほめ方をしますが、これは日本古来の「たましひ」の意味で言っているわけです。これを「この作品には霊がこもっている」と言えば、まるで別の意味の不気味なことになってしまいます。

「一球入魂」と言った野球選手がいましたが、この場合も「霊」に置き換えることはできません。なお、日本人ならば、この言葉の意味はただちに分かりますが、これを外国語に翻訳すれば、たかが野球のボールにどうすれば魂(ソウルまたはスピリット)を入れることができるかと、外国人には不思議な顔をされるだけでしょう。

また、「精魂を込めて仕事をする」といった場合の「魂」も同様です。何であれ、日本人は「たましひ」が込められたものを尊び、賞賛するのです。

それに対して、例えば「霊峰富士」とか「四国霊場」というように、人間の意志や意向とは無関係に宿る「たましひ」に対しては、「霊」という字を用いてきたようです。

人間がつくったものだけではなく、聳え立つ山や苔むす巌や古木や、あるいは海や川や湖にも「たましひ」をみてとり、その尊厳なたたずまいに畏敬の念を捧げてきたのが日本人でした。

近代的な感覚からすれば、とにかく到底宿りそうもないものにまで、「たましひ」は宿るのです。その典型が「言霊(ことだま)」です。「こと」は、人間の発する「言葉」であると同時に、あらゆる出来事の「事」でもあります。

そのすべてに「たましひ」がある。つまるところ、人間の言動から森羅万象に至るまで「たましひ」と無関係なものは、何ひとつとしてないということになります。

これは前近代的な大昔の迷信のたぐいというべきなのでしょうか。

「言霊」とは一般に、「言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた」(『広辞苑』)と解されていますが、この辞典の説明は正確ではありません。これだと、現代人は信じていないが、古代人は愚かにも信じていたといわんばかりです。では、受験生のいる家庭で「落ちる」とか「すべる」が禁句になっているのはなぜでしょうか。「その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられている」からにほかならないでしょう。このような例はほかにもたくさんあります。ある言葉を発すると縁起でもないとか、縁起がよいというように、今でも言霊が生きているのはまぎれもない事実です。そしてそれは、そんなに愚かなことでもないと思うのです。

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