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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【女工哀史の真相⑥】vol.48

岡谷の町は、日本の輸出産業を支える中心地であるという自負で、驕り高ぶる意識は一切ありませんでした。
地方からの出稼ぎだけでなく、地元の子女も「製糸工場で働くことができたら一人前」といわれ、こぞって働きに出ていました。

地方から出稼ぎに来る女工の中には、ろくに学校も出ていない人も大勢いました。製糸家はその子らのために学校を建てました。橋をつくり、道路をつくり、公民館をつくり、そのくせ、みずからはきわめて質素な生活を送っていたのでした。

余暇には工場対抗の運動会も開かれました。その写真は今もたくさん残っていますが、女工たちは本当にはつらつとしています。

製糸工女のためにつくられた「千人風呂」と呼ばれる温泉浴場は、今でもその文化財的な建物と共に大切にされ利用されています。

私の母の実家も製糸工場を営んでいました。家族は食事も入浴も女工たちといつも一緒だったそうです。
女工たちは国の宝でした。大切に扱われていたのです。

かつて女工だったというお年寄りが、岡谷を訪れてくれたことがあります。だれもが「成田山とお寺の観音様のご縁日にお参りするのが楽しみでした」と言い、とにかく皆が「なつかしい」と言います。「奴隷のように働かされていた」と愚痴を言う人は、ひとりもいません。
そういう人たちのほうが圧倒的多数なのです。そういう人たちの聞き取り調査で往時の「歴史」を紡げば、まったく違った小説が書けたのではないでしょうか。

実は、製糸という仕事は、誰でもできることではありません。有能な人、ふつうにする人、どんなに頑張っても出来ない人がいます。出稼ぎに来たといっても、それは種々でした。

先述の「百円工女」というのは、誰でもなれるものではありませんでした。そもそも糸繰りじたいが簡単に出来ることではなかったのです。
一等工女や二等工女になれない不器用な女性は、国内向けの工場や下働きや事務職に廻されたそうですが、ともかく働き口はあったのです。

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