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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【漢字の伝来】vol.30

わが国の漢字の伝来の時期については諸説あり、確かなことは分かっていません。『随書』倭国伝に、日本について、「文字はなく、ただ木に刻みをいれ、縄を結んで(通信)する。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて得、初めて文字を有した」とあることから、日本人が漢字を会得したのは仏教の公伝に伴う6 世紀の半ば頃だと言われてきました。
しかしながら、これには異論も多く、わが国正史の上では、応神天皇16年(285)、王仁(わに)の来朝により、論語十巻・千字文一巻の献上があったとされているところから、すでに3世紀には漢字は移入されていたと今では多くの学者は考えています。

徳川時代に福岡市志賀島の土中から発掘された「漢委奴国王金印」の刻のある金印は、西暦57年に後漢の光武帝が日本からの朝賀使に授けた印綬とされています。このようなものがある以上、漢字の伝来は西暦1世紀にさかのぼるとみなすことも十分可能です。

考古学的には、稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文を初めとして、5世紀頃の古墳時代には、かなり漢字の使用があったことが認められています。
それにもかかわらず、7世紀に書かれた『隋書』倭国伝に、日本について、「文字はなく」などと記されているのは、どうしてなのでしょう。

これを単に日本に対する認識不足にもとづく誤記だとして無視することもできます(現代の学者はそうみなしています)が、わが国最古のまとまった文献史料は、『古事記』と『日本書記』と『万葉集』です。わが国における本格的な漢字使用の時期はそれほど古くはないのです。
弥生時代に高度な水稲耕作や鉄器の使用を持ち込んだ大陸人は漢字文化圏の人々でした。 それにもかかわらず、弥生時代に漢字が使われた形跡は皆無です。日本人は漢字の導入にはよほど慎重だったようです。

つまり、漢字の伝来に関しては、日本人が漢字をいつ知ったのかということと、それをいつ本格的に使うようになったかということは別のことなのです。
日本という国は昔から様々な文物を海外より受け入れてきたと言われていますが、常に無条件に何でも受容したわけではありません。
やがて平仮名・片仮名に発展する万葉仮名の発明までに、漢字の導入について逡巡し、慎重を期した実に千数百年の歳月があったのです。

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