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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【戦後72年①】vol.79

戦後72年

平成7年(1995年)に戦後50年という大きな節目を迎えました。それは偶々、私の生涯においても大きな節目の年でしたが、まったく個人的な話なので、さておきます。第二次大戦後の半世紀、日本以外に、いかなる戦争も経験していない国が世界中で果たしてどれだけあったでしょう。その10年後に戦後60年を迎え、さらにその10年後に戦後70年を迎えました。これは決して当たり前のことではありません。今年平成29年は戦後72年目となります。特に目立った節目の年というわけではありませんが、ふと思い起こして、こうして「戦後」と呼ばれる時代が記録的な長さでずっと続いている世界にも稀な僥倖を有難く感謝したいと思います。

昭和31年の経済白書に「もはや戦後は終わった」と書かれていたのは、戦後11年目にして、わが国の経済水準が戦前を超えたからでした。そして、昭和36年に所得倍増計画が打ち出されて、その3年後の昭和39年に東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催されました。破竹の高度経済成長は、それまでの日本人が経験したことのない経済的豊かさをもたらしました。

明治政府が円という通貨単位を決めたのは明治4年のことです。当初、対米の為替交換レートは1ドル1円でした。変動相場制だったため、1ドル2円に円安になることもありましたが、明治30年に固定相場制となり、これで1ドル2円の比率が確定しました。これが昭和6年まで続き、以後再び変動相場制となり、戦前の昭和16年には、1ドルが4円26銭という円安になっていました。

それでも戦後の日本が、もし戦前のレートで貿易をし続けなければならなかったとすると、今なお世界の最貧国に甘んじていなければならなかったかもしれません。

戦後、日本を占領したGHQはなんと1ドル360円という極度の円安に為替相場を固定したのでした。わが国の主要都市が一面焼け野原となり、経済が壊滅状態にあったということもありますが、もし円相場が戦前のままであったら、戦後の日本の復興そのものがあり得なかったでしょう。

資源の乏しい日本は、戦前も戦後も、原料を輸入して、加工し、それを輸出して外貨を稼ぐ輸出立国です。例えば、1ドルに相当する加工品を輸出したとして、戦前なら4円程度しか入らなかったところを、戦後は一貫して360円も入ってきたのです。儲からないわけがありません。これをゴルフにたとえるならば、ハンディを100以上もらって競争しているようなものです。これではどんな素人でも勝って当然です。まして日本人の技術と勤勉をもってすれば結果は明らかでした。

1ドル360円の固定相場制は昭和47年まで続きました。この時点でアメリカの家電業界はほぼ壊滅状態となっていました。電化製品を日本製が席巻したのです。ついに悲鳴を上げたアメリカは同年「スミソニアンレート」と呼ばれる1ドル308円というレートに設定し、翌年に変動相場制に切り替えました。昭和50年頃は1ドル300円になっていました。

その10年後の昭和60年にアメリカのドル高対策としてプラザ合意が行われ、これによって急速な円高が進行しました。プラザ合意前日の東京市場は、1ドル242円でしたが、昭和63年の年初には1ドル128円まで進行しました。この円高のせいで日本国内の輸出産業や製造業は他国と比べ、一旦は競争力が落ちてしまいましたが、この状況を受け、公定歩合を引き下げるなどの政策が打たれ、その後、空前のバブル景気が起こったのでした。

バブル経済はバブル(=泡)ゆえに弾けたのですが、戦後50年に相当する平成7年には1ドル80円を割り込みました。このままでは1ドル50円まで円高になるのではないかと予測した人もいましたが、そこまでいくと輸出産業は壊滅し、日本経済は破綻してしまいます。そうなると日本から一千兆円を超える債務をかかえるアメリカの経済も崩壊します。ひいては世界経済も崩壊してしまいます。かくも世界経済に決定的な影響をもつほど日本の円は強くなっていました。こんなことを戦前戦中はもちろんのこと、また戦後間もない頃の日本人はおろか、当時の世界の誰が想像できたでしょうか。

この頃、すでに世界の総資産の3分の2以上をアメリカと日本が所有していたのでした。

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