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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【女工哀史の真相③】vol.45

岩波文庫本の細井和喜蔵著『女工哀史』の表紙には、次のように記されています。

「紡績業は日本の資本主義の発展にあずかった基幹産業の一つである。ヒューマニスト細井は、この産業を底辺から支えた女子労働者たちの苛酷きわまりない生活を自らの体験と調査に基づいて克明に記録した。本書をひもとく者は誰しも、近代資本主義の残した傷痕のいかに深く醜いかを思い知らされずにいない」とある。

この「解説」には重大な誤りがあります。大きな誤解を与えかねない嘘に満ちています。

一般にも、紡績と製糸とは混同されていますが、両者は別業種です。
明治以降、綿を主体とする紡績と織布は、主として国内向けの産業でした。
一方、外貨獲得を目的とし、日本経済を支えた基幹産業は紡績業ではなく、製糸業でした。『女工哀史』を書いた細井和喜蔵が見た「女工」とは、日本の基幹産業の製糸業に携わる女工ではなかったのです。

当時、製糸業の中心地は、岡谷にありました。その岡谷に紡績業はありませんでした。

今でも岡谷といえば、県外の人に「あの『女工哀史』で有名なところですね」と言われることがあります。しかし、細井和喜蔵は岡谷に来たことはなく、彼自身も製糸業とは生涯無縁で、製糸業に関する知識は皆無であり、『女工哀史』と岡谷とは何の関係もなかったのです。

まず、このことをはっきりとさせておきたいと思います。

実際に岡谷を「女工哀史」の舞台としたのは、山本茂実の『あゝ野麦峠』なのです。その副題「ある製糸工女哀史」が、ある意味で、すでに忘れ去られていた細井和喜蔵の「女工哀史」という言葉を復活させたのです。
山本茂実はこの作品で芥川賞作家の栄誉を得たのでした。

岡谷を「女工哀史」の地として、さらに広く全国的に有名にしたのは、これを原案とした山本薩夫監督の同名の映画でした。
この映画は、よくぞここまでというほど、私の郷土の岡谷を徹底的に貶めてくれました。その出鱈目な内容を暴かずにはおれません。

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