照光寺タイトル画像
住職写真

宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
バックナンバー

これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【仏教伝来の意味】vol.22

わが国への仏教公伝は、『日本書紀』によれば、欽明天皇13年(552年)冬12月のことです。百済の聖明王が「釈迦仏の金銅像一?・幡蓋若干・経論若干巻をってまつった」と正史に載っています。
仏教受容をめぐって、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏とが対立しましたが、蘇我氏が勝利を収めて、推古天皇2年(594年)春に「仏教興隆の詔」が出され、仏教は事実上の国教となります。爾来、大和盆地では古墳の造営が止み、かわって寺院が建立されるようになりました。
それまで日本人は尊いものを造形化するという習慣がありませんでした。今でもイスラム教は偶像崇拝を禁止していますし、キリスト教でも磔刑のイエス像や聖母マリア像はあっても、ゴッドの造形はしません。インド仏教でも紀元前後にガンダーラ美術が生まれるまでは、仏陀の造形は憚られていました。
当時、わが国と百済とは頻繁に交流がありました。百済には384年に仏教が伝わっています。わが国への公伝より168年も前のことです。当然、公伝以前より、日本人は仏教を熟知 していたと思われます。

仏教という教えではなく、仏陀という「異国の神」でもなく、仏像を受容すべきかどうかについて逡巡し、議論を重ね、時には対立抗争し、それに百年以上の歳月を費やしたというのが真相ではないでしょうか。
でも、ひとたび受容を決断したら、あとは一瀉千里でした。
聖武天皇の天平勝宝4年(752年)に仏教公伝二百年を記念して、東大寺大仏開眼法要が営まれました。仏教の故国インドにも大陸にも例のない世界最大のブロンズ像が誕生したのです。開眼法要には、大陸や東南アジアの国々はもとより、インドからも著名な僧を招き、全 国の諸寺から僧1万人が招かれました。華やかな歌舞が演じられ、それは「仏法が東方に伝わって以来、斎会(食事を供養する法会)としていまだかつてこれほど盛大なのはなかった」(『続日本記』)というほどの盛儀でした。

時は経て江戸末期、アメリカのペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航したのは、嘉永6年(1853年)のことです。この黒船に驚いてわずか半世紀後に日本が世界最大の造船国になったのは、一千三百年前仏教伝来にその範型があったといえるかもしれません。
天平期の仏像は人類最高の精神性の造形表現です。それは偶像を禁止している諸宗教では生み出しようのなかった成果として誇るべきものです。

照光寺について

住職連載法話