照光寺タイトル画像
住職写真

宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
バックナンバー

これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【日本人の死生観⑥】vol.70

ものを大切にする心

仏教伝来当初、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の対立がありましたが、蘇我氏が勝利をおさめ、物部氏は敗退しました。これによって仏教の受容が確定します。

物部氏の敗退と共に日本は古墳時代を終えます。エジプト最大のピラミッドがそっくり収まるほどの世界最大の墳墓は、日本の仁徳陵です。ピラミッドが果たして墳墓であったかどうかについては異説がありますが、とにかく世界最大の墳墓は日本にあるのです。二千数百年間につくられたピラミッドの数が117 であるのに対して、約三百年間につくられた古墳の数は全国で大小含めて三十万基も確認されています。

物部氏は大和朝廷で軍事・刑罰を担当した氏族と言われていますが、本来は古墳の祭祀をつかさどる一族だったのではないかと思われます。なぜこれほどの規模を誇った古墳の時代が終焉を迎えたかという理由について実はよくわかっていませんが、歴史的事実としては、物部氏が敗退し、日本が仏教を完全受容した時点で、古墳時代は終わりをつげたのです。

聖徳太子の時代に、仏教は国教としての地歩を固め、巨大な古墳ではなく壮麗な寺院を建立することによって、またそこに祀る仏像を造ることによって、「神聖にして霊的なもの」を極限まで追究する技術を磨きました。本来は目に見えない「霊的なもの」を、いかに荘厳に、いかに美しく、いかに崇高さと尊厳をもって表現しうるかということに当時の日本人は全精力を傾けたのです。

そのころの日本人の暮らしぶりがどのようなものであったか。時代は飛びますが、戦国時代の末期、初めて日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル、その後江戸時代に来日したオランダ通史、江戸末期から明治時代に来日した欧米人が共通して書き記していることがあります。それは大名から庶民に至るまで、すべての日本人の生活はきわめて質素だったということです。そんな日本人がなにをつくったか。

飛鳥時代、奈良の天平時代、平安時代、さらには鎌倉・室町時代の寺院建築や仏像彫刻の極限の造形美の前に、現代芸術は形無しです。

レベルが違いすぎるのです。東大寺の大仏を質量ともに凌駕するブロンズ像は、当時の世界において類例がなく、現代の世界にも出現していません。古都に聳え立つ五重塔の造形美と構造は、誰が見ても目を見張るばかりです。こうした、いにしえの作品はこれからも幾多の現代芸術を睥睨するかのように悠久の時を刻み続けるでしょう。

昔の日本人は、むしろ自分の生活の贅沢を極度にいましめ、あらゆる「もの」を大切にして、なおかつ尊び、その崇高な尊厳を最大限に表現するのに、世界無比の技量を発揮してきたのでした。

続きを読む

照光寺について

住職連載法話