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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【脱「個人主義」宣言】vol.10

昭和22年に施行された教育基本法の前文に「われわれは、個人の尊厳を重んじ」とあり、第一条にも「教育は…個人の価値をたっとび」とあるように、戦後教育は徹底して個人主義 を奨励してきました。
しかし、国家でも社会でもなく、また家でもなく、あるいは先祖や両親や兄弟姉妹でもなく、ほかの何でもなく、まず「個人の尊厳」「個人の価値」を教育の基本に置いて、果たして良かったのでしょうか。

人は人との関わりあいの中で生きているのだから、自分勝手さは慎みなさいよ、働くとは傍(はた)を楽にさせるということなのだよ、といった知恵をこそ父祖伝来の教えとして重んじてきた、その対極にある考え方を、あたかも人類普遍の思想であるかのように子供達に教えてきた。そのツケが最近は顕著になってきたように思われてなりません。
何より自分という「個人」が大切なのだと繰り返し教えられてきた子供達は、例えば何かで注意を受けた時、決して神妙に聞こうとしません。ほとんど条件反射的に、平然と「関係ない」という言葉を口にします。
不幸にも個人主義を完全に身につけた少年少女たちは、周囲のあらゆる恩恵を顧みず、自分が 1人で生きていけると錯覚しています。そして自分の思いどおりにならないと、いとも簡単に「キレる」のです。

記紀万葉の時代から、日本人が重んじてきた言葉の一つに「結ぶ」があります。「キレる」とは正反対の言葉です。もう一つ日本人が重んじてきたのは、「関係ない」ではんく「和の精神」でした。
こうした日本古来の伝統的精神文化を粉々にしようとしたのが、戦後のアメリカ仕込みの「個人主義」だったのです。しかしながら、そのアメリカでさえ初等教育では、生徒は親や教師に絶対服従するよう教えこまれています。自分勝手なワガママが許されるかのような個人主義は、子供に対してはアメリカでも教えていないのです。

精神の発達の未熟な生徒たちに「個人主義」という特殊な思想を、あたかも人類普遍の道徳であるかのように、これでもかと教えてきた戦後教育は、みるも無惨な結果をもたらしました。道徳の基本は、むしろ個の滅却、他への奉仕・慈悲・愛にあり、まるで正反対なのです。
世界の偉大な宗教が等しくエゴイズムの克服(仏教では「無我」、キリスト教では「隣人愛」)を説いてきたことに思いを馳せるべきでしょう。

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