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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【敵も供養する】vol.17

このほど世界遺産に登録された紀州の高野山には面白い言い伝えがたくさんありますが、その中の一つに、織田信長を倒したのは高野山の僧たちであったというのがあります。
比叡山を焼き討ちするなど、旧来の宗教勢力の一掃を図ろうとしていた信長は、天台宗と並んで大きな勢力を誇っていた真言宗の高野山も、当然標的としていました。その軍勢が山の麓に迫ってきていたとき、山上の僧たちは一丸となって、仏敵たる信長打倒のための調伏護摩を連日焚いていました。その最中に、信長が討たれたとの報が入り、高野山の包囲網は解かれたのでした。

信長を実際に倒したのは、もちろん明智光秀です。でも、実行犯が誰であろうと、山の僧たちは加持祈祷の威力かくやと確信したといいます。
信長の遺志を継いだ秀吉は、まず高野山の麓の根来を襲撃して、約三千ヶ寺を全滅させました。その勢いで高野山も風前の灯火でしたが、木食応其上人の取りなしによって攻撃を思いとどまらせたのでした。

高野山の奥の院に通じる参道には、戦国大名や江戸時代各藩の大名家の墓所も、天皇家や無数の一般庶民の墓に混じって建立されています。明智光秀の墓も豊臣家の墓も徳川家の墓もあります。
長い間、信長の墓だけはないだろうと思われていたのですが、それが戦後になって発見されました。秀吉は現在の高野山総本山の金剛峯寺の前身である青厳寺を建立するなど、その後の高野山にとって大きく貢献していますが、高野山にとって「仏敵」以外の何者でもなかった信長の墓も、実に高野山に建立されていたのでした。

鎌倉仏教を創始した各宗の祖師の廟も高野山にあります。
まぎれもなく高野山は日本人の総菩薩処として存在してきたのです。
世界広しといえども、このような霊場はほかにありません。
慶長4年(1599年)6月、鹿児島藩主島津義弘・忠恒の父子によって、朝鮮役における敵味方の戦死者の霊を慰めるため、高野山奥の院の旧鹿児島藩主島津家の墓所の一隅に「高麗陣敵味方戦死者供養碑」が建立されました。この碑は県の文化財に指定されています。

約四百年前に、敵と味方の戦死者の供養碑が建立されていたのです。今ですら、いったいどの国にこのようなものが存在するでしょう。

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