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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【戦後72年③】vol.81

今の韓国人は自国の本当の歴史を無視して、脚色した物語を歴史だと信じているようですが、一千数百年間、朝鮮がシナ(china)の属国だったことは否定しようもない史実です。日本では大化の改新以降、元号がつくられ、暦も貨幣も自前のものをつくってきましたが、朝鮮は日本が併合するまで、自前の元号も暦も貨幣もなく、シナのものを用いてきました。これを属国というのです。

そもそも「朝鮮」という名称自体、シナの朝廷から与えられたもので、シナの朝廷(=朝)に貢ぎ物が少ない(少ない=鮮)国という意味の蔑称だったのです。

明治時代の世界の趨勢は、西欧列強がアジア・中近東、アフリカ・オセアニア・南アメリカの国々を呑み込もうとしていた時代でした。そうした中で、朝鮮よ、頑張れ、独立せよと主張した日本と、朝鮮はあくまでも属国だと主張した清国と戦ったのが日清戦争だったのです。

今の朝鮮の人たちは、南北ともにこの事実を知りません。日清戦争の意義どころか、日清戦争があったということ自体を知りません。知っていれば日本に対する見方が全然変わるはずです。この戦争は朝鮮のために、日本が立ち向かった戦争でした。そして、この時の日本の勝利で、日本の国際的評価が高まると同時に、西洋列強のアジアに対する見方が変わったのです。

日清戦争当時、国際法に加盟していたのはアジアの中では日本だけでした。清国は交戦する資格すらなかったのです。戦争とは究極の外交手段だと先に述べましたが、外交にはルールがあります。それは戦時国際法として様々な条約に定められています。戦争とは、決して無際限の殺し合いではないのです。

国際法は、民間人の殺害や民間船舶への攻撃を禁じています。ところが清国は、すべての日本船舶に対して無差別撃沈を命じ、日本将兵の首に懸賞金を出したり、清国在留の一般邦人を殺害したりと、まるで無法状態でした。

国際法は、交戦国の一方が国際法を無視する時は、他方に報復する権利を認めています。しかし、日本は敢えて清国に対して報復の権利を行使せず、開戦直後には勅命をもって在日清国人の身体・財産の保護を命じています。

フランスのフィガロ紙とイリュストラシオン紙の「日清戦争」従軍記(明治28年2月22日付報知新聞に掲載)は、冒頭に「大日本帝国軍隊が世界に対して誇るにたる名誉を有することを観察し報道することを愉快に思う」と記し、上陸した村はずれの某家に「産婦あり、入るべからず」との掲示をあるのをみて驚嘆し、諸般の事例をあげ、「われらは日本帝国のごとき慈愛心に富める民あるを、この広大なる地球上に発見しうるかを怪しむなり」とまで称賛しています。

その一方―。

「ひるがえって清軍を見よ。日本軍卒の一度彼らの手に落つるや、あらゆる残虐の刑罰をもってこれを苦しむるにあらずや。或は手足を断ち、或は首を切り、睾を抜く。その無情、実に野蛮人にあらざればよくすべきの業にあらず。しかして日本はこれあるに拘らず暴に酬ゆるに徳をもってす。さすがに東洋君子国たるに愧じずというべし。」

かくして明治27年9月、京城に入った山県有朋は、次のような布令を出さなければならなかったのです。

「(敵に対しては)軍人と雖も、降る者は殺すべからず。しかれども、その詐術にかかるなかれ。かつ敵国は古より極めて残忍の性を有せり。誤って生け捕りに遇わば、必ず残虐にして死にまさる苦痛を受け、終には野蛮惨毒の行為を以て身命を殺害せらるるは必然なり。故に決して敵の生け捕りする所となるべからず。むしろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の名誉を全うすべし」

シナ人の残虐さは言語に絶するがゆえに、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」と、世界にも稀に捕虜となることを禁じたわが国最初の訓令です。

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