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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【道徳教育について】vol.24

戦後わが国を占領したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)より、「修身、日本歴史及び地理の停止」指令が出され、この三科目の授業は禁止されました。昭和21年6月より地理科、10月より日本歴史の授業再開の許可がおりましたが、明治の学制以降の学校教育の柱であった修身の授業だけはついに許可がおりませんでした。占領が終わっても、修身の授業が復活することなく、修身にかわるものとして道徳の時間が設けられるようになったのは昭和33年からのことです。

現在、文部科学省は、道徳を「心の教育」という言葉に置き換えて、道徳教育の重視を打ち出していますが、果たしてそれが修身に代わるものかどうか、「心の教育」なる道徳教育とはどうあるべきか、こうした議論は実は教育学者を含む教育関係者の間でも決着がついていません。
かつての「身を修める」と書く修身と、今の「心の教育」とは、実は似て非なるものです。
一方は「身」であり、一方は「心」です。
道徳は決して人類普遍のものではありません。インドのヒンドゥ教徒が牛を食べないのはヒンドゥ教徒にとって道徳的なことですし、イスラム教徒が豚を食べないのはイスラム教徒にとっては道徳的なことです。これは宗教上のモラルですが、いずれも日本人には関係ありません。

わが国には独自の「道の文化」があります。花を愛でる人は世界中にいますが、花を生けることを様式化し、細かな作法を編みだし、一器の花に全宇宙を見るほどの芸術理論を構築したのは日本人だけです。それは世界に例のない誇るべき感性の成果です。単に花を生けることを、人の生き方を極める華道という「道の文化」にまで高めたのです。しかも、多くの心得のある日本人はそれをいともたやすく玄関や床の間に飾るのです。
茶道や書道や剣道や弓道なども同じです。かつて江戸時代には、政治は政道であり、商売は商道であり、仏教もまた仏道と呼ばれたのでした。

さて、そのような「道の文化」を日本人はどのようにして会得するかと言うと、まず型から習います。どんな「道」の入門者も、礼に始まり礼に終わるということを教わり、さまざまな型の流儀を学ぶのです。
入門者にいきなり「茶の心とは何か」などということを教えたりはしません。まず形から入り、それを繰り返すことによって「身につく」ことが大切なのです。つまり、「心の教育」ではなく、「修身」なのです。

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