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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【女工哀史の真相④】vol.46

明治時代の生糸の生産は当時の日本の輸出総額の三分の一を占めていました。その最大の産地だった岡谷は、最盛期には日本の外貨獲得のほぼ半分を占めるほどであり、明治以降の近代化日本の経済を支えてきた町と言って決して過言でありません。

戦後、その誇りある功績はすっかり無視され、明治の殖産興業の裏の悲しい秘話として語り継がれてきました。学校の教材でも取り上げられることの多い「女工哀史」の言葉を聞く度に、地元の人々は胸を痛めます。

今では製糸業はすっかりさびれ、現在人口わずか5万余の市ですが、製糸業の最盛期には約7万6千を数えたそうです。このうち女工の数は当時約3万4千余人と、人口の半数近くを占めていたと聞き及んでいます。

明治前半期の産業界において全国の工場の半分は製糸工場であり、そこで就労している大半は女子工員でした。まさに女工たちが日本経済を支えていたのでした。
彼女たちは何の楽しみもなく、毎日休む間もなく長時間労働を課せられ、奴隷のような生活を送っていたのでしょうか。そのようなイメージが定着している「女工哀史」の真実の実態はほとんど知られていません。

明治、大正、そして昭和の戦時まで、近県の新潟や岐阜や群馬や愛知や静岡などから大勢の若い女性が毎年、「糸引き稼ぎ」に、岡谷の製糸工場に働きにきていました。

当時の農村はどこも現金収入が少なく、出稼ぎに行った女工たちの持ち帰るお金で、年越しが出来たといわれています。

そんな女工の中に、岐阜県吉城郡河合村角川で生まれ育ち、14 歳頃から毎年岡谷の製糸工場へ出稼ぎに行った「政井みね」という女性がいました。写真が残っていますが、小柄で顔立ちが整った美人です。

当時1年間働いて百円稼ぐ人は、模範工女とか優等工女、一等工女と称えられ、だれもが一日も早く「百円工女」になれることを願って頑張っていました。

政井みねは特に優秀で、わずか数年で「百円工女」になりました。百円あれば家が建つといわれた時代に、それだけの現金を、毎年持ち帰ることができたのです。

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