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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【古墳時代の謎】vol.21

わが国の歴史には古墳時代という世界史にも稀な時代があります。
3世紀末・4世紀初頃から7世紀頃まで約300年間、北海道・秋田・青森を除く、ほぼ日本列島全域で多様な墳丘墓が数十万と造られ、特に前方後円墳という独特の大規模な古墳が造り続けられた時代区分、とされています。最大の大仙陵(仁徳天皇陵)は全長486メートルもあります。
なぜ、こんな古墳時代が日本に存在したのでしょうか。

古墳文化は当時の東アジアに共通のものであったといわれています。古墳の内部の副葬品や壁画などには、たしかに大陸文化の影響を受けたものも多く見られます。しかし、その規模と数において、古墳時代と呼ぶにふさわしい一時代を築いたのは日本だけです。
古墳は当時の地方の豪族が巨大な権力を誇示するためにつくられ、その最大の中心地に大和朝廷が出現したと一般的に説明されていますが、巨大な墓が権力の象徴になることはあるとしてもそれは稀で、ふつう権力者が力を誇示するために造営するのは、自分が住む宮殿と
か城ではないでしょうか。
エジプトのピラミッドの例があるではないかと思われるかもしれませんが、紀元前3000年始まる古代エジプト文明約2500年もの間につくられたピラミッドの数は40程度にすぎません。
3世紀後半から突如として古墳時代が始まったかというと、実はそうでもなさそうなのです。それまでの約600年間の弥生時代の代表的な遺構である佐賀県の吉野ヶ里遺跡には、甕棺墓1383基を始めとする計1591基の弥生時代墳墓が確認されており、集落の中に首長を葬る大規模な墳丘墓があったことが分かっています。それに先立つ縄文時代を代表する青森県の三内丸山遺跡でも、死者を埋葬する墓が住居部分よりも大きな面積を占めて集落の中にあったことが判明しています。

わが国の古代人は、生者と死者が共存する生活、というより、むしろ死者を中心とする生活を営んでいたのです。といっても、驚くにはあたりません。現代でも、多くの一般家庭では先祖を祀る仏壇を中心とする生活を営んでいます。このルーツは意外と古く、はるか縄文時代に遡る1万年以上の日本の伝統だったと言えるのではないでしょうか。
古墳時代というのは、死者を鄭重に祀る縄文以来の伝統が華々しく開花した時代として、わか国の歴史上で特異な光彩を放っているのです。

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