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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【自由という特権】vol.36

自由という言葉は、もともと仏教用語です。仏典では「煩悩の束縛から離れた解脱の境地」 をさす語として用いられていました。
つまり、自由は「悟り」と同義でした。
近代になって、英語の「リバティ」や「フリーダム」の訳語として「自由」という語が用いられるようになったのですが、福沢諭吉が仏教用語を借用したのが始まりだといわれています。
リバティとは、本来は西欧中世において政治的な特権を意味する語でした。一部の特権階級がほしいままにできる権力のことです。

西欧の宗教革命とは、教会が独占していた特権を民衆にも譲れと主張したことです。それは何かというと、神と聖書(バイブル)と儀礼の独占権です。それまで、一般民衆は教会を通さなければ神を礼拝することもできず、また聖書を読むことも許されていなかったのです。
教会に抵抗する者という意味の「プロテスタント」の教徒が手にしたのは、教会を通してではなく、じかに聖書を通じて、純粋に神を信仰する自由でした。教会の特権を民衆が手にしたものが「自由」だったのです。

仏教においては「悟りの境地」を意味し、キリスト教においては教会が独占していた「神を信仰する特権」を意味し、やがて民衆が手にすることのできたものが「自由」です。自由とは誰もが決して容易に手にすることができないもの、という合意があったといえるでしょう。
こうした経緯をふまえて考えてみると、「自由」という言葉は、今でもすべて「特権」という言葉に置き換えることが可能です。
例えば日本国憲法第十九条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」の「自由」は、日本という国家が国民に保証している「特権」だとは言えないでしょうか。日本を一歩出れば、思想統制の厳しい国はいくらでもありわけです。そうである以上、わが国の中ではどんな思想を抱いてもかまわないというのは、日本国民の特権なのです。

よく自由気ままに生きたいという人がいます。どう生きようと私の自由だと言う人もいます。もしそれが実現すれば、それはその人に限って、思い通りに生きる特権を得たということなのです。
自由はいつでもどこでも得られるものではありません。それを獲得するするために、たいへんな努力と苦難を必要とする貴重な結果なのです。

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