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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【戦後72年④】vol.82

以後、第二次大戦の最後まで、戦場の日本人はこの精神に殉じることになります。

世界の予想を裏切って、日本は大帝国・清に圧勝。明治28年(1895)4月、下関条約調印。この条約の第一条に「清国は朝鮮半島が完全無欠の独立自主国であることを承認する」と銘記されたのです。この明白な歴史的な事実を知れば、今の朝鮮の人々は日本に感謝しなければならないはずです。

眠れる獅子と恐れられた大帝国・清が極東の島国日本に敗れたのです。これで西洋のアジアに対する見方が変わりました。

ただちに露仏独の三国が遼東半島の放棄を日本に勧告してきました(三国干渉)。日本はこれを受諾しました。明治31年(1898年)、ドイツは膠州湾を、ロシアは遼東半島の旅順と大連湾を占領。フランスは広州湾九十九カ年租借権、イギリスは九竜半島九十九カ年租借権を獲得。シナ大陸は貪欲な白人諸国から勝手放題に蹂躙され、もはや国のかたちをとどめていませんでした。

明治19年6月に日本は赤十字条約に加盟し、同年10月には海上国際法に関するパリ宣言に加入していました。「事実は、日本政府がその採択せる文明の原則を実行するに堪えることを示した。日本は日清戦争で敵が国際法の原則を無視したにも拘らず、自らはこれを尊重した」とフランスの国際法学者フォーシーユ氏は述べています。

明治33年(1900)、清国に義和団事変が発生しました。これは一種の排外運動でしたが、日本を含む列国により鎮圧されました。このどさくさにまぎれてロシアは全満洲を占領しました。ロシア軍は満洲に侵入するや街を焼き、略奪の限りを尽くしたのです。

この頃、ロシアの識字率は20%以下。日本人の識字率はほぼ100%。日本人は世界の野蛮人たちと戦っていたのです。

清軍の敗残兵はもっと酷かったと伝えられています。ところが北京に入城した日本軍は違いました。日本の軍規は厳しく、末端の兵士にいたるまで非行の一つもなく、北京の住民は、この有史以来、初めて目にする光景に驚き、布や紙に「大日本順民」と書いて日本軍を歓迎したのでした。

この頃、清国はすでに独立国家の体裁をなしていませんでした。西欧列強の草刈り場と化していたのです。しかし、日本はどこであろうと自国の領土を広げようという野心はありませんでした。なぜそう言えるか。ハワイが格好の例です。

明治14年(1881)3月、ハワイ王カワハラが来日しました。密かに明治天皇を赤坂離宮に訪問し、懇談したことが『明治天皇紀』に記されています。ハワイ王は日本の皇室との縁組を望み「日本を盟主に亜細亜連盟を!」と提案したのです。明治天皇は、日本の皇室が他国と縁組をしたことは前例がないとの理由で、この申し出は退かれました。

このときハワイ王はもう一つ、日本人のハワイへの移民を希望しました。ポリネシア人の人口の減少を憂い、「優秀な日本民族の移民」を懇願したのです。これらの申し出は、当時の世界情勢下において、ハワイは独立国家として存続することが困難であるから、これからハワイは日本の領土になってもいいといっているに近い申し出でした。

明治天皇は、移民のことは承諾されたようです。ハワイへの日本人移民の約束は実行され、その結果、1900年にハワイ在住の日本人は6万人以上、全人口の40%に達しました。これはシナ人やハワイ土着民の2倍、米国人の9倍でした。

もし住民の数で国の帰属を決定したとすれば、またもし日本に「侵略」の意図があったならば、ハワイ諸島は日本の領土になっていてもおかしくありませんでした。それは十分に可能だったのですが、日本にそんな野心はありませんでした。

ところが、どうです。1893年1月、わずか150名の海兵隊がハワイ政庁を奪取し、カメハメハ王朝は滅亡しました。こうしてハワイはアメリカ50番目の州となったのです。それは明治26年、ハワイ王が日本を訪問して12年目のことでした。

 

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