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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【日本人の死生観③】vol.67

 

下降する「霊」、上昇する「魂」

「霊」と「魂」。この二字の合成語が「霊魂」です。誰が考えた言葉か知りませんが、これは近代の日本で生まれた造語です。

漢籍にはなく、したがって漢和辞典にも用例が載っていません。わが国の古典にも用例がありません。仏典にもまったく登場しません。

明治時代に、英語の「スピリット」や「ソウル」の邦訳語として用いられるようになった言葉ではないかと思うのですが、根拠のない言葉なのですから、霊魂が存在するかどうかという議論は無意味だと言わねばなりません。

「霊」と「魂」。この二つの漢字は、成り立ちが全然違うのです。

まず「霊」の字の構成の主な部分は「雨」です。つまり、雨のように「上から降り注いでくるもの」というのが、この字の本来の含意です。「霊」は、とにもかくにも「下降するもの」です。

これに対して、「魂」ですが、この字の旁の「鬼」という字は、お面をかぶった人の姿を表わしています。偏の「云」は「隠れている」という意味です。

そもそもの成り立ちとして、「魂」という漢字は「魄」と対をなしていて、漢語としては、その二つを合わせた「魂魄(こんぱく)」という言葉が一般的です。

実は「魄」という漢字も「たましひ」と訓読されます。しかし、この漢字が「たましひ」を表わす言葉として日常的に用いられることはありません。

本来、魂魄とは「生きている人」のことなのです。

古代中国では、人が死ぬと魂と魄とに分かれて、魂は天に上昇し、魄は地上に留まると考えられていました。「魄」の字の偏は、白骨のことです。

現代的に言うと、「魂」は精神を意味し、「魄」は肉体を意味します。

その二つが合体したのが人間で、魂と魄とが離ればなれになった状態が死です。

すると、「魄」と分離した「魂」は天に上昇するのですから、天から下降する「霊」とは正反対の動きをすることになります。

人が死ぬと肉体から抜け出て天に上昇する目に見えない何か、それを「魂」という。

そして、天から下降して何か不思議な働きをするもの、それを「霊」という。

一方は下降し、一方は上昇する。

というわけで、本来、「霊」と「魂」は結びつきようもない言葉だったのです。

 

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