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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【日本人の死生観⑬】vol.77

「あの世」というアナザーワールド

問題は、「あの世」です。それは紛れもなく確かな「もう一つの世界(another world)」なのです。そこはこちらからは見えない、不可視の世界であるけれども、なぜかそちらからはこちらの世界(この世)のことがよく見えて、こちらの世界にさまざまな働きかけすらできる、その意味において確実に高次元の世界と考えられていました。あの世で祖霊たちは「生きて」「暮らして」いるのです。

春になると里に下りてきて豊穣をもたらしてくれる山の神というのは、単に山のどこかに住む神というのではなく、その「もう一つの世界」から訪れて来るのであり、その入り口が山のほうにあるということなのです。それは必ずしも山でなくてもかまわないのでして、川の上流でも下流でもかまわないし、海の向こうでもかまわないわけです。もし祖霊の住処が山に限定されるなら、盆送りの精霊流しで灯籠を川に流すのは方向違いということになっています。しかし、柳田國男が日本古来の他界観として「山中他界説」を唱えたように、一般的に山は神聖なものと考えられ、日本中のほとんどの山は霊山として崇められ、死者の赴くところだと考えられてきました。

神々はこの世に豊穣をもたらしてくれるだけではなく、時には災いももたらします。そんな場合でも我が国の住人たちは、むしろそれは生者の奢りを戒め、人々の生活に反省を促す警鐘として受けとめてきたフシがあります。要するに、あらゆる自然現象を含めて、この世の出来事はこの世の因果関係だけで完結しているのではなく、「もう一つの世界」からの何らかの関与が必ずあると人々は信じていました。

それはなぜ怪奇現象が起きるのかといったオカルト的な好奇心とは無関係で、ただ単純にそういう信仰が人々の日常の生活、営みを支え、あるいは普段の行動を律する役目を果たしてきたのでした。すなわち、それがすべてのことに「お陰様」といって感謝する日本人の美徳の源泉となるものだったのです。

柳田國男や折口信夫が開拓した日本民俗学という学問は、我が国の民間信仰や習俗を丹念に調査し、できるだけ仏教色に染まっていない、仏教色に染まる以前の日本の民間信仰を明らかにしようとしたものですが、この学問には限界がありました。民俗学には歴史性がないという批判が寄せられることがありますが、そういうことではなく、現存する民間信仰の由来をどれほどさかのぼっても、せいぜい室町時代までなのです。そしてそのすべては、仏教とは決して無関係ではありえなかったということです。

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