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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【戦後72年②】vol.80

願わくは「戦後」と呼ばれる時代が、この先いつまでも続いてほしいものです。これはほとんど確実なことだと思いますが、大方の日本人はもう二度とどの国とも戦争をしたくないと心底思っています。そして、わが国は今や他のどの国とも戦争をする必要も必然性もありません。

当たり前のことですが、敵がいなくては戦争になりません。今現在わが国が敵視している国はありませんから、わが国が率先して戦争を起こす懸念は限りなくゼロです。だが、残念ながら、故なくしてわが国を敵視している国は周辺にずらりといます。

戦争の悲惨さをいくら訴えても戦争はなくなりません。戦争はその必要と必然性がなければ起きません。言い換えれば、願っても願わなくても、必要と必然性があれば、戦争は起きるのです。なぜならば戦争とは究極の外交手段だからです。これ以上、あるいはこれ以外の外交手段はないと判断されたとき、戦争は起きるのです。その時、その備えがないか備えが脆弱な国は滅ぼされるか、併呑されるだけです。大戦後においてさえ、そのような例は枚挙にいとまがありません。

明治に始まる近代日本は、三つの大きな対外戦争を遂行しました。最初は日清戦争、二番目は日露戦争、三番目は大東亜戦争です。いずれも遂行せざるを得ない必要と必然性がありました。大義名分があったのです。はじめの二つの戦争は勝利を収め、最後の戦争は大敗しました。重要なことは、いずれの戦争も世界史の流れを大きく決定的に変えたのでした。

まず日清戦争について述べます。明治27年に起きた日清戦争については一般にかなり誤解があります。これを「日本と中国とが戦争をした」と思ってはいけません。対戦相手は清王朝でした。だから「日清戦争」というのです。

清王朝は、漢民族からすれば辺境も辺境、万里の長城より遙か北の満洲人がシナ本土を制覇して建てた国です。日本は国を挙げて戦いましたが、シナ本土の住民にとっては関心の薄い朝廷の戦争にすぎなかったのです。しかも兵士のほとんどはアヘン中毒で士気の疲弊は甚だしいものでした。少なくとも今の中華人民共和国(当時はまだ影も形もない)が、清国が日本に負けたことを恨みに思う筋合いはまったくないにも関わらず、何を勘違いしているのか。

結局は日本が勝ったのですが、この戦争はどうして勃発したのか、振り返ってみます。

明治27年、朝鮮半島に「東学党の乱」が起きました。これは農民一揆が政治暴動化した、もとは些細なデモ運動にすぎませんでした。ところがこの機に、清国は朝鮮に出兵すると同時に、わが国に出兵通告をしてきたのです。

それに対して、わが国は「朝鮮が清国の属邦たることを承認せず」と反論し、とりあえず清国兵力との均衡を保つため出兵しましたが、わが国は朝鮮国王に内政改革を勧説しました。そこで政権の座に復帰した大院君は清韓の宗属関係の廃棄を宣言したのです。しかし、それを認めず、あくまでも朝鮮は属国と言い張る清と、朝鮮の独立を支持する日本の間で戦争が始まった、とこういうわけです。

両国の宣戦布告文を読み比べてみてください。

日本の宣戦布告文―。「朝鮮は帝国がその始に啓誘して列国の伍伴に就かしめたる独立の一国たり。しかも清国は常に自ら朝鮮を以て属国と称し、陰に陽にその内政に干渉し…帝国はここにおいて朝鮮に勧むるに、その秕政を改革し、内は治安の基を堅くし、外は独立国の権義を全くせむことをもってしたるに、朝鮮はこれを肯諾したるも、清国は終始陰に居て百方その目的を妨害し…」

清国の宣戦布告文―。「朝鮮は我が大清の藩属たること二百余年、歳に職責を修めるは中外共に知る所たり」

日清戦争の原因は朝鮮にあったのです。朝鮮は清の属国であると主張する清朝と、朝鮮の独立を主張する日本とで折り合いがつかず、両国は宣戦布告を行ったのでした。この明白な史実を今の韓国人も中国人も、また多くの日本人も知りません。

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