照光寺タイトル画像
住職写真

宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
バックナンバー

これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【日本人の死生観⑩】vol.74

死後の世界

死後の世界についても、その明確なヴィジョンを持っていた古代人にくらべて、そうでない現代人は不幸と言わざるを得ないでしょう。

なぜ明確なヴィジョンを持てなくなったかというと、現代人は唯物論の虜になってしまったからです。唯物論とは、簡単に言うと、この世は「モノだけ」(あるいは、人によっては「カネだけ」)という考え方です。そういう考えの人は、「自分の目で見たもの以外は信じられない」と言います。この言い方は実は矛盾しています。信じるとは、目に見えないものがあると思うことだからです。例えば家の土台は目に見えませんが、それがあると信じているからこそ、安心して住んでいます。目で見たものしか信じられないというのは、人間以下の畜生の行動する世界にほかなりません。

人類史上、たえず蔑まれてきた畜生同様の考え方が、あろうことか科学的とか合理的という名の下に世界を席巻してしまった稀な時代が近現代なのです。

およそ死について考える態度には三つあります。一つは自分の死。二つは他人の死。三つ目に最愛の人の死です。

自分の死は未来のことです。それは決してみずからの経験として語ることも考えることもできません。他人の死は、しょせん自分には無関係のことです。どんなに思いを巡らそうと、死は、それを観念的に考える限りにおいて、解答不可能です。しかし、死は観念ではなく、常に事実としてあります。

不幸にも最愛の人の死に出合う。そのとき初めて、人は死という厳粛な事実に直面します。死について切実に考えることができるのは、まさにそのときです。

最愛の肉親、あるいは友人、あるいは可愛いわが子の死に遭遇したとき、死者は単なる死者ではありません。その魂は厳然と存在します。観念的に存在するかしないかなどという議論の域を越えて、否応なく実感として存在するのです。

死は人生の終わりであり、この世の生の完結です。亡骸は無惨にも物言わぬ物体と化します。しかし、それはすべての終わりではない。親は、祖父母は、あるいはわが子は、もう目に見えない手の届かない世界に行ってしまった。しかし、そこでの「生」がこれから始まるはずです。あの世がどんなに遠く、またいかなるところであろうと、その「生」は安らかで幸せなものであってほしいと願わずにいられません。

―あの世この世と 隔つれど通わすこころ ひとすじに おなじさとりの 道あゆむ 契りは永遠に つきせじな―(「追善供養和讃」)

このように、他人はいざ知らず、また誰が何といおうと、今生で結ばれた絆は決して消えることなく、心はいつでも通いあえるのです。もしかすると、生きているとき以上の強い、深い絆で。

理屈ではありません。互いに思い、思われる、この絆があるかぎり、魂はまぎれもなく実在します。死後の話はここから始まります。

続きを読む

照光寺について

住職連載法話