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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【進歩とは何か】vol.29

交通手段も通信も医学も科学技術も何もかも日進月歩の現代ですが、これをもって、人間が進歩した、世の中が進歩した、文化が進歩したといえるでしょうか。
江戸時代なら江戸から大阪まで歩いて一月もかかったところを、今だと新幹線で3時間もかかりません。これ自体は途方もない進歩に違いありませんが、現代人は東京から大阪への旅に、一眠りか週刊誌を読む程度の経験しかできないのに対して、長い徒歩の時代には旅の途中でどれほど味わい深い経験ができたことでしょう。

便利になった、そのための道具が進歩したからといって、人間自体が進歩したわけでは決してないと思うのです。

男児学ばざれば 即ち已(や)む
学ばばまさに
群を越ゆるべし
………
いずくんぞ
奮発して 志を立て
もって国恩に答え
もって父母を顕さざるべけんや

これは『日本外史』や『日本楽府』を著した瀬山陽(1780.1832)が、まだ十歳のときに書いた文章です。同年齢の今時の小学校4年生がこれだけの文章を書けるかどうか(逆立ちしても無理)、ということよりも、こういう気概を持っている子供が果たしているでしょうか。
常に人格の向上を心がける立派な人は現代にもいるし、江戸時代にもいたし、鎌倉時代や平安時代にもいたし、もっと昔の弥生や縄文の時代にもいたでしょう。愚劣で卑怯な人間は、いつの時代にもいました。

どの時代にも、努力する人や人格を磨こうとする人がいたし、愚かな人間もいました。今もそうです。親が勤勉で立派だからといって、その子供がなにもしなくて尊敬されるわけがありません。人間も文化も社会も、ちっとも進歩しません。要は、いつも本人次第なのです。

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