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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【女工哀史の真相⑦】vol.49

山本薩夫監督の映画「あゝ野麦峠」では、女工の宿舎で火事が起こり、部屋に閂(かんぬき)が掛かっていて女工が逃げ出せず、悲惨なことになったように描かれていますが、実態は違います。閂は女工が逃げ出さないように外に掛かっていたのではなく、不埒な若者が夜這いをかけないように、部屋の内部に掛けられていたのです。

著者の山本茂実が聞き取り調査をした元女工の年齢は様々です。明治・大正・昭和と製糸業の実態も変わっているにもかかわらず、そうした歴史的な変化は無視されています。

例えば、この本では女工達はみな野麦峠を歩いて来たように書かれていますが、全行程を歩かなければならなかったのは、明治40年頃までであって、中央線の開通と共に、ほとんどが汽車を利用していました。

大正の頃は、集団で歩いて峠を越すことはありませんでした。徒歩の途中の旅館代より汽車賃のほうが安かったからです。政井みねの頃は、すでに鉄道を利用しようと思えばできたのです。

また明治末期までは2月に峠を越えることがありませんでした。春蚕が出始める6月以降でないと仕事がないのです。しかも、12月末まで操業することはなく、11月頃帰ることが多かったのです。
その頃の時代設定の小説と映画で、雪の飛騨峠を越えるということは、実際にはありえないことでした。

このほど山本茂実の取材ノートが収められている松本市歴史の里の協力で、岡谷市教育委員会が調査分析し、同氏の小説は歴史書としての扱いはできないとの結論を得ています。この芥川賞受賞小説は、内容が出鱈目だったということです。でも、このことは世間ではほとんど知られていません。

ところで、『あゝ野麦峠』が公刊された昭和43 年とは、どのような時代だったのでしょうか。

東京大学の安田講堂が医学部学生らに占拠され、機動隊が出動して学生達と衝突し、どこもかしこも大学紛争で賑わっていた時代でした。
その年の十月の国際反戦デーでは学生らが新宿駅を占拠し、放火しています。警視庁はこれに騒乱罪を適用しました。
その年末には、翌春の東大全学部と東京教育大四学部の入試中止が決定しました。翌春、東京大学の入学試験が実際に行なわれないという前代未聞の顛末となりました。

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