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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【日本人の死生観⑪】vol.75

魂の行方

死後七日ごとに追善供養を行なう風習は、ほぼアジア全土にみられます。インドでも古くからありました。七回目(四十九日目)の最後の日をすぎると死者は他の生におもむくと考えられました。他の生とは、〈地獄〉〈餓鬼〉〈畜生〉〈阿修羅〉〈人〉〈天〉のいずれかであり、この六道の世界に永遠に生まれ変わることが、輪廻転生です。

存命中を本有といい、死の瞬間(死有)から次の生存(生有)を得るまでの四十九日の中間の期間は中有または中陰と呼ばれます。

問題は四十九日を過ぎた死者の魂の行方です。この理論だと、もう何かに生まれ変わってしまうわけですから、供養すべき魂は「あの世」にはないことになります。だから仏教で四十九日後の追善の供養をするのはおかしなことだという人もいますが、果してそうでしょうか。

この点は一般にかなり誤解されています。仏教は輪廻転生を説くのではなく、輪廻からの解脱を説くのです。もはや二度と六道に生まれ変わるのではなく、何らかの方法によって、永遠の安らかな世界(極楽)に達すること、すなわち解脱すること、それが仏教の目的であり、仏教における救いであります。

解脱した人を仏といいます。一般には死者のことも仏と呼びますが、本来、死者は死者というだけで仏ではありえません。しかし、四十九日の満中陰は、他の生に生まれ変わる時ではなく、彼岸の極楽浄土に至ったか、至ることが決定した時でなければならない、というのが、遺族の偽らざる心情でありましょう。そこで、日本では死者のことを、究極の願望と尊崇の念をこめて仏と呼ぶようになったのだと思います。遺族が死者に代わって功徳を積み、その功徳を死者に振り向けるという追善回向の仏事は、そうした気持ちの表れにほかなりません。

日本人の信仰形態は死者儀礼と祖先崇拝を中心軸としています。

この現状について、日本仏教は本来の仏教ではないという人もいますが、インド仏教にも様々な歴史的な展開があり、またタイ仏教などの東南アジア仏教やチベット仏教があるように、日本仏教という独自の仏教が生まれたのも仏教史の一つの展開としてどうして認めようとしないのか、私には理解できないことです。

日本仏教は葬式仏教だと批判する人がいます。明治になるまで日本人の葬儀は全部(神官ですら、そして天皇家も)仏式でした。徳川三百年を通じて定着した伝統がなお現代にも生きているのです。問題は、むしろそれが崩壊しつつある現状です。

古今東西を通じて、「死者の弔い」という宗教者にしかできない最も神聖で厳粛な儀式を、日本においては全面的に仏教が担ってきたという歴史的事実を、むしろ重視すべきでしょう。このことについて見方を変えれば、仏教発祥の地インドを含めて、仏教が伝播したどの地域でも実現しえなかったことが日本で実現したのですから、これは日本仏教の誇るべき一面とさえ言えることなのです。

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