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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【王様は裸だ!】vol.14

福沢諭吉翁は、著名な『学問のすすめ』の中で「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と宣言しました。人が天によって造られたものかどうかはともかく、これは途方もなくインパクトのある言葉でした。
しかし、この言葉は逆説なのです。それまで、「人の上には人があり、人の下に人がある」ということは、当然至極のことだったのです。

主張とはそういうものです。たとえば「太陽は東から昇る」というのは当たり前のことすぎて、誰もあえて主張しようとはしません。ですが、「太陽は昇るのではない、地球が東向きに回っているのだ」というのは主張になるわけです。
では、「太陽は東から昇る」という誰もが知っていることは間違っていたのでしょうか。天動説が科学的に正しいことは歴然としています。
でも、誰もが当たり前の事実と知っていることも、決して間違ってはいないのです。太陽が東から昇ることを誰が否定できますか。

同様に、人は平等には生まれついていない。こんなことは、いつの時代でも、むろん現代でも、誰もがわかっていることではありませんか。
ある人は裕福な家に生まれ、ある人は貧乏な家に生まれる。家庭も両親も環境も千差万別です。生まれながらにして、頭がいい、器量がいい、五体満足である、五体不満足である。そうでしょう。あらゆる人間はすべて不平等に生まれてきます。すべては違い、この世の万物、万人に差異があり、格差があります。だから差別をしてもよいというのでは、勿論ありません。ただ不平等という事実から目をそむけるなということです。

もし、すべての人間がロボットのように寸分たがわず同一の規格品として生まれてきたのだったら、まさしく、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」といえたでしょう。ただし、その場合、あなたの代わりはいくらでもいるということです。あなたは、あなたの代わりが決して一人もいない、かけがえのない存在である。あなたと同一の人は今後二度と生まれてこない。あなたが死んだら悲しんでくれる人がきっといるのも、あなたの代わりになる人はどこにもいないからでしょう。

極度の平等社会を標榜する現代において、このように主張することは、福沢翁の時代とは大きく隔たり、「王様は裸だ」と言うに等しく、勇気のいることですが、あえて言います。あなたは誰とも「平等」ではない。

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住職より