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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【善悪の根拠】vol.04

たとえば人の命を殺めてはならないということを、私たちはどうして知っているのでしょうか。よく、それは法律で決まっているからではないかという人がいますが、わが国の法律では「人を殺した者は、死刑又は無期もしくは 3年以上の懲役に処する」(刑法第 199条)と定めていますが、どこにも「殺してはいけない」と定めているわけではありません。窃盗や損害でも同じです。刑法のような法律は社会常識を前提としていて、常識がいけないとしていることに反したことに罰則規定を設けているだけなのです。

では、殺してはいけない、あるいは盗んではいけないというような規範となる常識はどうして生まれたのでしょうか。
ここで考えていただきたいことは、自然界にはそのような規範は存在しないということです。猫が鼠を捕るのは善でも悪でもありません。太陽が東から上り西に沈むのも善でも悪でもありません。よい水とか悪い水、あるいはよい火とか悪い火があるわけではありません。
でも放火は悪いことに決まっています。なぜでしょう。善とか悪とかいう規範はただ人間の行為についてのみ言えることだからです。
大人なら許されないことでも子供ならまだ善悪の判断ができないからといって許されることもあります。つまり、善悪の規範を知るのは心の成長と関係があるということなのです。
そして、その規範は誰かが勝手に決めたものではなく、長い歳月をかけて先人が試行錯誤を経て積み重ねてきたものを受け継いだものにほかなりません。すなわち、私たちの社会で「これは善いこと」とか。「これは悪いこと」として通用している善悪の規範・常識とはすべて先祖の知恵から学んだものなのです。これが人間の文化というものです。

宗教は道徳ではありません。でも、宗教を否定したところには道徳は生まれようもないのです。なぜなら、善悪の規範となる意識は人の心の成長のプロセスにおいて、心の中に芽ばえるものですが、その根拠は自然界にはなく、人の心が成長していく先の向こうにあるからです。わかりやすく言うと、「こんなことをしてはご先祖様に恥ずかしい」というふうに、たとえば目には見えないご先祖様が指標となる。祈りの向こうにある「目に見えない」超越的存在が常に善悪の根拠となるのです。

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