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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【女工哀史の真相⑤】vol.47

製糸工場で人一倍頑張った少女、政井みねは20歳の時に工場で病に倒れてしまいます。
「ミネビョウキ、スグヒキトレ」という工場からの電報を受取った兄の政井辰次郎(当時31 歳)は、岡谷まで七つの峠と30 数里の険しい山道を、宿にも泊らず夜も休みなしに歩き通して、わずか2日で岡谷の山一林組工場に辿り着いたそうです。

準備してきた背板に板を打ちつけ座布団を敷き、その上に妹を後ろ向きに坐らせ、ひもで体を結えて病室から連れだしました。

辰次郎は妹を松本の病院へ入院させるつもりで駅前の飛騨屋旅館に一泊しました。兄も旅館の人も入院加療を勧めたのですが、妹はどうしても飛騨へ帰りたいと言う。
しかたなく再び妹を背負って野麦街道を登り、野麦峠の頂上にたどりついた。そこでうれしそうに、「ああ飛騨が見える、飛騨が見える」という言葉を最後に、みねは事切れた。
明治42年11月20日のことでした。

映画のクライマックスとして人々の涙を誘う少女の最後は、原著には「『みねは飛騨を一目みて死にたかったのであろう』、そう言って辰次郎は60年も昔のことを思いだして、大きなこぶしで瞼を押え声をたてて泣いていた。当時の彼の衝撃が想像される」とあります。

これが実話であることを疑うつもりはありません。

しかし、この話には色々と不自然なことがたくさんあります。
もはや90 歳を超えていた兄の辰次郎や、製糸工場の女工だったという明治生まれの飛騨のお年寄り達に、往時より60 年も経て聞き取り調査したものを本にまとめた意図はどこにあったのでしょう。そして、それがその10 年後に映画化された意図は一体何だったのでしょう。

私の知る限り、現存する往時の製糸家は誰しも「こんな映画のような酷いことをしたことがない」と憤慨します。実際にそんな経験は誰もしたことがないと言います。

日本の輸出産業のトップを自負していた製糸家は、日本の宝を生み出す女工を、当時としては最大限に優遇していたのです。

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