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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【女工哀史の真相⑨】vol.51

学校の教材や、野麦峠の記念碑などに添えられている説明は次のようなものです。筋金入りの日本共産党員だった山本茂美や山本薩夫の言うとおりの嘘が学校で教えられていると思うと愕然とします。

「明治から大正にかけて、外貨を稼ぐ手だては、生糸でした。養蚕が日本を支えていた時代、その陰では十代、二〇代のうら若き製糸工女たちの悲惨な生活がありました。」

「諏訪地方には豊富な水のおかげもあり、製糸工場が集中していました。周辺農村部から集められた大半の少女達は、山深い飛騨の山中の村々から連れてこられた貧しい農家の子供達でした。多くの少女達が半ば身売り同然の形で年季奉公に出されたのでした。工女たちは、朝の五時から夜の十時まで休みもほとんどなく過酷な労働に従事しました。」

「工場では、蒸し暑さと、さなぎの異臭が漂う中で、少女達が一生懸命、額に汗をしながら繭から絹糸を紡いでいた。苛酷な労働のために、結核などの病気にかかったり、自ら命を絶つ者も後を絶たなかったという。」

「当時は、今のように健康保険があるわけでなく医者代は高く、せっかく稼いだ少しばかりの金はたちまち消えてしまう。よほど重症にならない限り、医者にかかるということをしなかった。結核は不治の病とされ、村の年寄り衆は病気で帰る工女に出会うと生きているのにすでに仏に向かうように合唱して見送ったという。」

「工女千人について23人という高率の死亡推計があり、その7割が結核という。」

こんな記述ばかり続くと、まるで少女を奴隷のようにこき使った酷い様子ばかりが印象づけられることでしょう。
そういう時代だったのだということだけでは片づけられない後味の悪さは拭い去れません。

それにしても、どうしてこんな嘘がまかり通っているのでしょうか。
当時のあらゆる業種の中で、結核感染率が最も低かったのが、実は製糸工女であったという統計があります。
明治の「紡績」「生糸(製糸)」「織布」「製麻」という主な業種の中で、肺結核で工場を解雇された女工の割合の最も少ないのが、実に製糸業だったのです。

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