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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【政教分離】vol.35

政治と宗教とは分離しなければならないということは、今や日本人の常識になっています。なぜなら憲法にそう定められているから。
ですが、これが近代国家の原則であるかのように思いこんでいる、否むしろ、勘違いしているのは、世界の中でもきっと日本人だけでしょう。
イギリスではキリスト教を国教としています。デンマークでも「福音ルーテル教会をもってデンマーク国教会とする。国家は、国教教会としてそれを維持しなければならない」と定めています。

アメリカ合衆国の場合、修正第一条に「国教の樹立の禁止」を定めていますが、それは多民族(多宗教)国家であるアメリカで国教を設けることは難しいからであり、決して政教分離を国是とはしていません。
アメリカの大統領は就任の際に聖書に手を当てて宣言する習わしですし、裁判所や軍隊には専属牧師が配置されていて、連邦議会にはキリスト教の礼拝堂があり、すべてのドル紙幣には「われらは神を信ず」と印刷されています。この国のどこに政教分離があるでしょう。
スペインでも「国教は存在しない」と憲法で定めていますが、同時に「公権力はスペイン社会の宗教的信条を考慮し、カソリック教会及びその他の宗派とのこれまでの協力関係を維持する」と規定しています。
カナダの憲法の前文には、「カナダは、神の至高と法の支配を認める諸原理に立脚しており」と記されています。

もし完全に宗教性を欠如した人間がいたとすれば、それは機械か鬼畜に等しく、まともな人間として相手にされないことは世界の常識です。
たとえ粋がって自分は無宗教だと名乗る人でも、最愛の人が亡くなったときに、遺骸をゴミ扱いして平然としてはいられないでしょう。

国家とは、つまるところ人間の集合体です。その国家において、完全に宗教性を排除した政治が果たして本当に可能でしょうか。
日本国憲法第二十条第三項「国及びその機関は、宗教教育及びその他のいかなる宗教活動もしてはならない」という規定により、わが国の公教育では宗教教育が禁止されていますが、いかなる宗教性も排除した教育という、人類史上において、また世界のどの国においても例を見ない「無宗教教育」がいかに異常なことであるか、そしてそれが現在どのような成果を生み出しているかということを私たちは知らねばなりません。

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