照光寺タイトル画像
住職写真

宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
バックナンバー

これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【日本語の仏教②】vol.86

漢字の需要

ほとんどの漢字には音読みと訓読みがある。音読みにも漢音読みと呉音読みなどの違いがあるが、いずれにしても、それらは昔の中国で発音されていた漢字の読みである。今の中国では失われてしまった読み方だが、かつて日本に漢字が伝来した頃の読み方を日本人はほぼ忠実に継承してきたのである。

ここで二つ、重要なことがある。一つは、漢字を受容するにあたって日本人は、漢字本来の読みとは別に、漢字に対して強引に日本語の読みを当てはめた。

今の例でいうならば、「寺」という漢字は「ジ」という音と共に伝わったが、日本人はこの漢字を「てら」と勝手に独自の方法、すなわち訓で読むことにした。

もう一つ重要なことは、日本人は表意文字である漢字を表音文字として使うことにした。日本語を表記するために漢字本来の意味を無視して、漢字をローマ字のような純然たる記号として用いる方法である。これが万葉仮名であり、後に平仮名や片仮名のもとになる。

広大なアジア大陸並びにその周辺の漢字文化圏で、このような離れ業を用いて漢字を受容した国は他にない。

大陸の黄河流域で漢字が発明されたのは3300年ほど前のことだとされる。いつ日本に漢字が伝えられたのか定かではないが、金印や木簡の目印のような断片的な記号ではなく、文字体系としての漢字、すなわちまとまった漢籍を日本人が本格的に受容したのは、6世紀半ばの仏教受容とほぼ軌を一にしている。

ここで不思議に思うのは、もっと早い時代から日本人は漢字文化を知る機会がなかったのだろうかということである。弥生時代を通じて大陸からいろんな文化や文物が入ってきたとされているのに、どうやらそれを伝えた人たちは漢字だけは伝えなかったらしい。そんなことがあり得るだろうか。

考えられることは三つほどある。まず一つめに、弥生時代を通じて大陸(や半島)から高度な文物が入ってきたという通説は間違っている。だから、当然、漢字も入ってこなかった。

二つめに、弥生時代を通じて大陸から日本列島にやってきた人たちはいただろうが、その人たちに漢字の読み書きができるほどの教養はなかった。だから、大陸の文物といってもたいしたものはなく、大陸伝来とされているものでも、そのほとんどは列島の住民が独自に考案したものだった。

どちらにしてもはるかに重要なのは、三つめ。実は古くから日本人は何らかの方法で漢字を知る機会があったが、この便利なアイテムをそっくりそのまま受容すべきではないと賢明にも判断した。そしてついに漢字を訓読みするシステムと万葉仮名として用いる方法を編み出したのである。生半可な知識と歳月で出来ることではなかったはずである。何世紀も熟慮を重ねてきた結果と言って過言ではない。

照光寺について

住職連載法話