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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【日本語の仏教③】vol.87

日本語の意味

そこで話を戻して、では、日本語の「てら」とはどういう意味なのだろうか。

問題は二つある。まず、漢字が入ってくる以前から用いられていた日本語(=古代日本語)の「てら」は何を指していたのだろうか。

「やま」や「かわ」の場合、漢字が入ってくる以前から、日本列島には聳える山や流れる川があったのだから、その名称として、「やま」も「かわ」もあった。

この言葉を漢字の「山」や「川」の訓読みとした。この点に問題はない。

だが、仏教の寺院が日本に建立されるようになる以前に、「てら」という言葉があったとすると、それは何を指していたのだろうか。

次に問題は、その日本語の「てら」にはどのような意味があったのだろうか。

最初に結論を言うと、その答えは、不明である。つまり、分からない。

ここまで日本語の言葉について縷々述べてきて、答えが不明とは何事かと思われるだろうが、分からないものは分からない。それほど日本語それ自体の研究が遅れているのだと言わざるを得ない。

もちろん、まったく分からないのでは話にならないので、どういうことが分からないのかということを含めて以下に推測を元に述べておきたい。

まず、「てら」の「ら」という語は、原則として場所・方向を指す。「こちら」「あちら」「そちら」といった場合の「ら」がそうである。

また、「唐」の読み方とされる「から」の「ら」も同じである。「から」は「向こうの国」という場所をさす。「向こう」という意味の「か」に対して、「こ」には「こちら」の意味がある。だから、「かなた」に対して「こなた」という。また、「かれ」に対して「これ」という。

「か」に「向こう」という意味があるから、向こうから流れてくるものが「かわ(川)」で、向こうにあるものが「かみ(神)」なのであろう。

このように日本語の音韻には意味がある。意味のない言語など存在しないのであるから、当然と言えば当然のことなのだが、五十音は単に記号にすぎず、その一つ一つに意味などはないと思っている人が案外多い。

漢字の「寺」も仏教寺院という施設(場所)を指すのであるから、日本語の「てら」も何らかの施設(場所)を指す言葉であったことは確かである。

それはどのようなものであったのだろうか。

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