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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【死者も家族】vol.23

十数年前のことになりますが、亡き夫の五十回忌の供養をしてもらいたいと寺を訪れた婦人が少なからずいました。
戦後五十周年を迎えた平成7年頃がそのピークでした。
供養主は70代から80歳を超える老婆でした。
結婚後数年、人によっては数日か数週間で、夫を戦地に送り、二度と顔を合わせることのなかった妻がいたのでした。何人もの子を抱え、夫の両親に仕え、戦後50年間、家を守り抜いてきた婦人がいたのでした。

ひとりでひっそりと寺を訪れ、「亡夫の五十回忌になります。供養をお願いします」と最初に申し出られた時は、私は息がつまりました。
当時20代で、数年か数ヶ月あるいは数日の結婚生活しか送らなかった新妻が、そのわずかな思い出だけを心の拠り所として、嫁いだ家を50年間も守ってきたのです。なんということでしょう。
亡夫の五十年忌の法事をする妻が、世界のどこにいるでしょうか。絶対にいない、と断言できます。

キリスト教の結婚式では、「汝は、この女性(男性)をよきつけ悪しきにつけ、病の時も、健やかなる時も、死が二人を分かつまで、聖なる結婚により妻(夫)とするや」と、神父なり牧師が新郎新婦に尋ねて、両人は「はい」と答えるわけです。この中の「死が二人を分かつまで」という言葉はとてもロマンチックに響きますが、これを言い換えると、一方が死んだ時点で、この結婚契約は終了するということなのです。50年間も死んだ夫を(あるいは妻を)思い続けることはありません。

韓国や中国などの儒教文化圏では、姓とは血統のことなので、血統の異なる夫婦は同姓になりえず、つまり夫婦別姓です。嫁は、婚家の「家(姓)」の後継者を生むだけの存在であり、そうした国々では、嫁いでも妻は他人なのです。
日本の家族は違います。日本では、嫁いだ妻はもちろんのこと、家族は死んでも家族の一員です。生きている人だけが家族ではないのです。
妻が亡夫の五十回忌の供養をする。こんな国が世界のどこにあるのでしょう。これを世界に発信すべきだったと思います。そうすれば、きっと全世界の男は日本女性を妻にしたいと思ったことでしょう。

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