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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【祈りのために】vol.02

親しくしているチベット人がふとこんなことをもらしました。「私たちは祈るために生活をしているが、日本人はその反対のようだ」と。これには意表をつかれた思いがしました。
そして大いに考えさせられました。
たとえば明日の天気を祈る、旅の無事を祈る、家族の健康を祈る、あるいは死者の冥福をいうように、わたしたちの日常生活において祈りはむしろありふれたことですが、こうした何かのための祈りは決して悪いことでも何でもなく、人間のごく自然な感情の表れですし、人間に特有の営みにほかなりません。
何に向かって祈るでしょうか。何か、自己を越えたどこか、はるか高きもの、何か神聖なものに向かって、それが祈りでしょう。

もしも「私は祈ったりしない」「私は絶対祈らない」という人がいたとすれば、それは自分の力で何でもできると思いこんでいる余程傲慢な人でしょう。人知人力には限りがあり、そのことを思い知ればこそ、人は祈り、祈らずにいられないのです。
言い換えれば、祈りは、人の人たるあかしであり、人の謙虚さのあかしでもあり、それゆえに人の心の成長のあかしといえるものでしょう。
そうであるならば、祈ること、祈れること自体に至福を感じ、そのために日々の営みがあり、生活がある。断じてその反対はない。つまり、生活のために祈りがあるのではない。これはまさに正論でしょう。
たとえばキリスト教徒が日曜日に教会に行くのは、日曜が休みで暇だからではありません。ほんらいは、すべては神に奉仕することが目的で、そのために日々の暮らしや労働があるという考えです。

日本の昔からの村々の祭も同じことでした。祭にそなえて人々は懸命に働くのです。その収穫を神に供えて、そのおさがりをみんなが一緒に感謝していただき、楽しく騒いで、また
次の祭にそなえて働く。このように人々は祭のために働くのであって、農閑期で暇だから祭をするというものではありませんでした。私たちの先祖もそうしてきたのです。
祈ること、祈れること自体を幸せと感じるような生活を、もしかすると私たち現代人は忘れかけているのかも知れません。

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