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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【自分との対話】vol.42

私たちは自分自身の内で、常に「対話」をしながら生きています。
空腹とか眠気とか痛みとか、何かを感じて、それに対して何らかの行動を起こす前に、一瞬たりと何も考えないような人はいないでしょう。
たとえ単にお腹がすいたから食べる、眠たいから眠るといった本能にもとづく行動の場合でも、今は本能に従っても誰憚ることはないと判断する自分がどこかにいるはずです。

朝、目覚まし時計が鳴り、もっと寝ていたいという自分と、起きなければならないと考える自分がいて、「対話」が始まります。
どちらが本当の自分なのでしょうか。眠い自分に対して、起きなさいと命令する自分がいます。一方で無理に起きなくてもかまわないよと甘いささやきかけをする自分がいるかと思えば、このまま寝ていたらどうなるだろうかと心配する自分がいて、どうしようかなと迷う自分がいます。

もし自分という存在が裏も表もない単純な、たった一つのものであったとすれば、こんな「対話」が成立するはずがありません。奇妙な言い方になりますが、自分という存在は決して一人ではないのです。
おそらくそれが他の動物とは違う人間の特徴といえるでしょう。自分の内にたくさんの自分があり、そのどれもが自分自身なのです。
世の中に多種多様な人たちがいるように、たくさんの自分がいても不思議ではありません。なのに私たちは、ともすれば自分とはこういうものだと決めつけて、自分を小さな殻に閉じ込めてしまいがちです。

私たちは自分で自分を誉めてやることがあります。自分を叱り、責めることもあります。励ますことも、甘やかすことも、おだてることも、喜ばすことも、けなすことも、困らすことも、赦すことも、怒らすこともできますし、自分をだまし、自分に嘘をつくことさえできます。
およそ他人に対してなしうることは、すべて自分自身に対してもすることができるということにお気づきでしょうか。
「近くにありながら認識しがたいものは自分の心であり、微細で空虚に等しいほど広大なのは自己の仏である。自己の仏は思議しがたく、自己の心は広大なるものである」(空海『秘蔵宝論』
私たちひとりひとりは皆、自分自身でさえ想像もつかないほど広く多彩な心の持ち主なのです。

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