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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【自由に生きるとは?】vol.09

もっと自由になりたい、自由でありたいという気持ちは誰もが持っていると思います。自由であることは素晴らしいことです。言うまでもありません。そして戦後の日本は、憲法によって思想・信条・表現・出版・結社の自由が完全に保証され、画期的な自由尊重の時代となりました。
しかし、その一面で、行き過ぎた自由尊重が生み出す弊害もあらわになってきました。いかなる強制も束縛も悪いことだと考え、身勝手で我がままでも悪いことではなく、何でも自分の重い通りにすることが自由だと勘違いする人が増えてきてしまいました。

自由とは決して初めからあるものではなく、努力苦心の末に獲得するものなのです。そのためには、時には厳しい強制や束縛も必要であり、規律や規則の裏付けのない自由はないのだということが、今や、おとなにも子供にも忘れられてしまっているようです。
自由の反対は、強制でも束縛でもなく、単に不自由ということです。例えば、日本人なら日本語を自由に話せますが、これは幼い頃から日本語を強制されてきたからです。生まれたばかりの子供に、自由に言葉を話しなさいといっても無理に決まっているように、無意識のうちに身につけた日本語文法という束縛がなければ、私たちは一言も喋れないのです。

ルールのないゲームやスポーツもありません。将棋の名人が自由に駒を動かすことができるのは、たくさんの定石を知っているからです。定石にしたがうということは、ある意味で束縛です。でもその束縛のない素人には駒を自由に動かすことはできないのです。
人を殺す経験をしてみたかったといって本当に人を殺してしまった少年がいました。自主性を重んじて自由に生きよと教えられ、ありのままの自分でいいんだよ、と甘やかされて育ってきた今の子供達は、実は真に正しく自由に生きることを不幸にも遮られてきたと言えるでしょう。

チェスタトンはこう言っています。「首の短いキリンを描くのは自由だと主張するならば、つまりはキリンを描く自由がないことを発見するだろう」「民衆をアジるのはいいとしても、三角形に向かってその三角から脱出せよとアジるのはやめたほうがいい。三角の牢獄を抜け出たとたん、三角形の命も哀れ一巻の終わりとなる」(『正統とは何か』)。
首の短いキリンを描く自由とは何か。至極、言い得て妙な譬えです。

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