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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【起源の話⑦】vol.59

自然淘汰の破綻

どんな早産でも、人の母胎から人以外の生物が生まれた例はありませんから、個体発生は系統発生を繰り返すというのは嘘です。

原初の生命は太古の海の底で、何らかの化学反応が起きて偶然に生まれたとされていますが、それは例えば、機械部品を袋に入れて揺さぶり続けたら、ある日偶然、時計や自動車の完成品が組み立てられていたというようなものです。その可能性はゼロに等しいと言わねばなりません。

一個のバクテリアですら、その生命体としての遺伝子の分子構造は、時計や自動車などとは比べものにならないほどの複雑な仕組みです。しかも、未完成の時計や自動車はあっても、すべての生物は完成体として地上に生まれています。常に百パーセントの確率で無数の完成体が偶然に生まれるということがありうるでしょうか。

偶然による突然変異と自然淘汰。これがダーウィンの進化論のすべてです。

しかし、まず突然変異は生物において珍しいことではありませんが、変異した個体は一代で終わります。個体変異は種の全体に及びません。

ある環境のもとで個体に次々に起きた突然変異が種全体に及ぶことがあるとしても、それはニシキヘビが大蛇に変わるという程度のことです。魚が蛙になり、いつしか鳥になり、あるいは象や猿になり、やがて人類になるような突然変異が本当に起きたのでしょうか。

自然淘汰に関しては、わが国を代表する不世出の生態学者・今西錦司氏(1902~1992)の棲み分け理論によって、完全に論破されているように思われます。

自然淘汰というのは、要するに弱肉強食ということで、強いものが生き残るという話です。だが例えば、梅と桜が自然淘汰によって、どちらかが生き延びようと競い合っているとでも言うのでしょうか。

蝶と花は共生しているのではないでしょうか。自然界において種々の動物や植物は熾烈な生存競争をしているというより、互いに共存し、棲み分けをしているというのが実情です。

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