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宮坂 宥洪( みやさか ゆうこう)
照光寺住職
成田山蓮華不動院住職
智山伝法院院長

月々の言葉と連載法話
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これまでの法話を毎月一話ずつ紹介していきます。また、毎月境内に貼られる月々の言葉を掲載 していきます。

お寺を訪れる人は、住職の「月々の言葉」に励まされています。ご覧になった方の、心の支えになれば幸いです。

今月の言葉

【女工哀史の真相⑩】vol.52

肺結核で工場を解雇された女工の割合に関して、最も多い紡績で26%台、次に織布で20%台、製麻が11%台に対して、生糸(製糸業)はわずか4%台です。

当時、結核は不治の病とされていましたたが、地元では糸工場の女工は結核にかからないといわれていました。それほど各工場では衛生管理をしていたということですが、実は糸をとり終わったあとのサナギは結核治療薬の材料になっていたほどで、そうした免疫効果も確かにあったのです。

こうした実態を無視して、製糸業では結核が蔓延していたみたいに言われ、映画の『ああ野麦峠』では、主人公は罹患していない結核で死んだことにされています。原作では、腹膜炎で亡くなっているのです。

日本の基幹産業を自負していた業界で、その生産を実際に担っていた女工は、経営者にとっては宝であり、本人達もそれを誇りとしていました。

衛生管理も徹底していて、無医村の多い時代に、当地では開業医が林立していました。
女工が無学であってはいけないということで、製糸家は学校を造り、修学までさせました。
女工は県外から募集しただけではなく、地元のほとんどの子女も就業していました。あこがれの職業だったのです。

これのどこが「哀史」なのでしょうか。

山本茂実は、ことさらに「哀史」を描き出そうとした気配があります。嘘でも何でも、当時はそういう文を書けば芥川賞も貰える時代だったということなのでしょう。
晩年の山本茂実は贖罪意識からか、松本市歴史の里の建設に協力し、自らの取材ノートや録音テープを提供しています。あるとき、地元の人に詰問された同氏は、「ああいうふうに書かなければ売れなかったんだよ」と述べたといいます。

かつて日本経済を支えた健気にも偉大な女工たちを、果して「哀史」で語ってよいのでしょうか。「悲しい、哀れむ歴史」ではなく、「誇れる歴史」として語れないでしょうか。日本近代史の訂正を希うものです。

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